いろんな考察があるが、お江与の方と確執はあったというのはウソだと思う。あまちにも立場が違いすぎ逆らう事など出来なかったはず。教養が高く優れた乳母であった事は確かでお江与の方亡き後、頼りにされたのは間違いない。結果として稲葉家再興や実子を家光の小姓にして出世もさせたが、実はそれが望みだったととも思う。。忠長事件は忠長を持ち上げて出世を図った周りの人間が起こした事ではないか。忠長の奇行は後付けも多いと思われる。世継ぎ問題はいずれの国でも動乱の元となる。その意味では大奥の設立(後には50人も産ませた将軍も出るが)に寄与したのはその後の太平の世を築いた要因となったと思う。